総社文学会

総合文芸誌「総社文学」昭和47年 創刊

昭和48年 新春号「総社文学」Vol.4 あとがき

 昭和48年新春号「総社文学」Vol.4の「あとがき」に下記のような記述が見られる。
創刊の中心となった井奥(難波)行彦氏が書いたものであるが、立ちはだかる壁に立ち向かう当時のメンバーの意気込みや試行錯誤が感じられとても新鮮である。

 創刊50年という歴史に甘んじてはならない。
 創刊当時の精神に立ち返り、新しい方向性を見いだしていくことが大切なのだ。

 

〈昭和48年新春号「総社文学」Vol.4あとがき〉
 我々の文学は、最も尖鋭な実験をしよう、最もめずらしい外国の文学をとり入れよう、という、日本の、いわゆる中央の、ジャーナリズムの周辺にある文壇の宿命的な課題とは逆の出発をしたのでした。
 流行歌のように急速に過去のものになっていく文学が、現実生活にとってどのように取捨選択され、どのように進化せねばならなかったのかというととを反省し、それを実作で裏付けようというのが我々の課題だったのです。
 けれども、我々のグループが、今までの号で行なったことは、最も初歩的なものでした。それは、お互いの作品の心と表現と意図とを話し合うことでした。つまり、俳人は、歌人は、詩人は、随筆家は、どういうつもりで作品を書くのか、その説明を聞く作業から始めねばならなかったのです。
 当然分ってもらえると思っている我々の作品が、他のジャンルの人には当然のことでないということを知ったのは、何よりもよいことでした。(僕としては、また他のジャンルどころか、同じ詩のジャンルでもそれが言えると思うのです。)
 作家から読者へと、どうしてもこれ以上近寄れないという作品もあるでしょう。「総社文学」の出発の課題は、(逃避的な意味ではなしに)文壇への疑問から発生したものだったのです。
 外部への文学運動であることは勿論ですが、我々が、先ず内部で分り合うとと、そして、そこから反省し、それをゆっくりと生かしていこうという方向に目ざめたのが昨年の小さな収獲です。
 文学は、中央からいただいてくるものばかりではないという我々グループの出発は、その趣旨をくんでの反響もあり、支援してくれる報道もありました。
 地方に根をもつ文学、それが「地方」ということに甘えない重厚な生の息吹きを持つこと、道は相当遠いものですが、継続の意志をみんな固く持っています。(難波)